今年「部門」を廃止、小学館漫画賞を通して考える「マンガ賞」の現在とこれから

第69回小学館漫画賞の贈呈式の様子。

マンガ大国・日本。「手塚治虫文化賞」「講談社漫画賞」「マンガ大賞」「次にくるマンガ大賞」……プロのマンガ家による作品を表彰するマンガ賞が、日本にはいくつもある。そんな名だたるマンガ賞の中でも、69年というひと際長い歴史を持つのが小学館漫画賞だ。第69回となる今年度は山田鐘人原作・アベツカサ作画「葬送のフリーレン」、松井優征「逃げ上手の若君」、絹田村子「数字であそぼ。」、稲垣理一郎原作・池上遼一作画「トリリオンゲーム」の4作品が受賞した。3月に開催された贈呈式では、参列者も聞いていて思わず笑みがこぼれるような、受賞者・審査員の“マンガ愛”が弾けるスピーチの数々が披露された(参照:やっぱり私はマンガが大好き!受賞者・審査員の思い弾けた小学館漫画賞の贈呈式)。

小学館漫画賞は昨年まで「児童向け部門」「少年向け部門」「少女向け部門」「一般向け部門」の4つの部門が用意されており、各部門に即した作品が選ばれ、評価されてきた。しかし、長期にわたり設けられていたこの「部門」は 今年廃止に。確かに世の中には、一概に「これは少年マンガ」「これは少女マンガ」と選別しにくい作品がたくさんある。そんな状況も鑑みて、今回の部門廃止に至ったのかもしれない。実際背景にはどんな思いや経緯があったのか、小学館漫画賞事務局の西巻篤秀氏に話を聞いた。

また同賞で審査員を務めるマンガ家の島本和彦と、コラムニストのブルボン小林にもそれぞれメールでコメントを求めた。部門が廃止となったことで審査に影響はあったのか。また自身がマンガ賞に期待することとはどんなものなのか。マンガ愛の深い、2人らしい真摯な回答はとても興味深いものだった。

三者からの言葉を通して思いを巡らせることになったのは、マンガ界にとって、またマンガ家にとっての「マンガ賞」がどんな存在であるべきか。マンガ賞は現在、そしてこれからの未来、どんなふうに変化していく必要があるのか。小学館漫画賞の裏話を交え、考えてみる。

取材・構成 / 熊瀬哲子

部門分けの廃止を経て感じた「難しさ」

1955年に創設された小学館漫画賞。近年は毎年12月に最終候補作、翌年1月には受賞作品が発表され、その年の3月には贈呈式が行われるのが慣例だ。筆者はおよそ8年ほど、この小学館漫画賞の贈呈式に取材記者として参加(コロナ禍の影響で式自体の開催が見送られた年もあった)。この式でマンガ家たちは受賞の感謝と自身の作品に対する思いを述べるのだが、そのスピーチは毎年胸を打つものがある。贈呈式に足を踏み入れられるのは関係者のみ。そのため「作家たちの思いはしっかりと読者にも届けたい」と毎年レポート記事の執筆にも力が入る。

そんな小学館漫画賞は、昨年まで「児童向け部門」「少年向け部門」「少女向け部門」「一般向け部門」の4つの部門が設けられていた。過去には月刊コロコロコミック(小学館)で発表された曽山一寿「絶体絶命でんぢゃらすじーさん」が「児童向け部門」を受賞したり、別冊マーガレット(集英社)で連載された咲坂伊緒「思い、思われ、ふり、ふられ」が「少女向け部門」に選ばれたり、これらは一例に過ぎないが、わかりやすく説明すると、発表媒体をもとに候補作品が各部門に振り分けられていた(なお「“小学館”漫画賞」と冠する賞ではあるが、選ばれる作品は小学館の出版物に限らない)。昨年の贈呈式で小学館の代表取締役社長である相賀信宏氏はこの“部門を分けての顕彰”が選考委員会内での議論の1つになったことを明かし、「部門分けを課題として捉え、解決に向けて歩みを進めていきたい」と語っていた。その言葉通り、年末に最終候補作品が発表された際には、早速部門が廃止されていた。

来年で設立から70年という長い歴史を持つマンガ賞である。部門分けをすべて廃止するという大きな変更を取り入れるには時間を要するのではないかとも想像していたが、問題提起から廃止に至るまで、外部の立場から見るとスピード感があった。小学館漫画賞事務局の西巻篤秀氏にそう伝えると、「部門分けに関しては常に意識されてきたことなんだと思います」と言う。

小学館漫画賞は1955年に「小学館児童漫画賞」として、健全な児童マンガの振興に資することを目的に設立された。1960年(第6回)には「小学館漫画賞」として呼称が改められる。それまでは少年少女向け作品のみが選考対象となっていた。

1975年(第21回)には幅広い作品を授賞対象とするべく、「青年一般向け部門」が加えられ、2部門の賞にリニューアル。さらに1981年(第27回)には新たに「児童向け部門」が設けられ、1983年(第29回)には「少年少女部門」が「少年部門」と「少女部門」にそれぞれ独立。短期間での見直しに当時の事務局員の試行錯誤が感じられるが、4部門に拡充されてからは約40年、「児童向け部門」「少年向け部門」「少女向け部門」「一般向け部門」での選考が行われてきた。2年前に小学館漫画賞の事務局の一員となった西巻氏はこう語る。

「私が事務局に入る以前から、『このマンガはどのジャンルなんだろう』という話は出ていたと思うんです。例えば(第67回の受賞作品である田村由美の)「ミステリと言う勿れ」は、連載誌が月刊flowersという少女マンガのセクションにはなるのですが、受賞時には一般向け部門として選出されました。

『このマンガはこの部門でエントリーされているけど、それが正しいのか?』という話は、数年前から審査員の方々の間でも話題に挙がっていて。過去にはジャンルの広がりを受けて部門を増やしてきたけれど、昨今のマンガ界の状況を見ると、そもそも部門という縛り自体をなくしたほうがいいのではないか、という話になっていきました」(西巻氏)

これまでも時代に合わせて変化を重ねてきた小学館漫画賞。西巻氏は「(部門分けの廃止は)初めての試みになるので、いい点・悪い点はそれぞれ出てくるかもしれない。そんな中、相賀社長からは『まずはやってみて、気になる点が出てくれば改良していきましょう』という後押しがあったので、今回の適用までのスピード感につながったのだと思います」と振り返る。

部門にとらわれずに作品を選べるようになったことで、審査に影響はあったのだろうか。審査員の1人である島本和彦は下記のように語った。

部門分けすることによっていいことは同じジャンルで高評価の作品が並んだ場合、どうしても1つは落とさねば……みたいな事態を回避できるということですね。あと、最近は載っている雑誌でジャンル分けができない作品が多くなってきたのでこの流れは必然かもしれないですね。(島本)

また長年、小学館漫画賞で審査員を務めているコラムニストのブルボン小林にも尋ねた。

部門分けの廃止はある種の必然性があります。紙媒体では男女にきっぱりと分かれていたのが、少年向けでも少女向けでもないWeb媒体が増え、あらゆる層に全対応のマンガが出てきているのを審査しやすくなった。その一方で、以前は児童向け部門に振り分けられていたような作品を、ほかと比較することの難しさを感じました。個人的には児童向けも大人向けも「同じマンガ」としてみていきたいとは思うんだが ……今後も皆で考えていくことになりそうです。(ブルボン小林)

部門の廃止を経て感じた「審査の難しさ」 。この点に関しては事務局の西巻氏も同様に言及している。

「審査員の方々もどこに審査の基準を求めるかというのは、すごく難しかったと思います。部門はなくなったのですが、いろんな層に向けたいろんなジャンルの作品がある中から、幅広く選んでいただきたいという思いもある。例えば児童向けマンガも“児童向け”と謳っていても、子供だった読者に与えた影響は大人になっても変わらないかもしれない。そういった功績や価値を、ジャンルにとらわれずに評価していただきたい。

今回、難しい中でも審査員の皆さんには公平に選んでいただいたと思います。どういう形式で行うのが“今”一番ふさわしいのかということは今後も常に考えながら、幅広いマンガ家さん、そして作品にスポットを当てられるよう、その時代に適した形をずっと取っていきたいと思っています」(西巻氏)

「ふざけんじゃねえぞ俺の漫画がこれに劣っていると言うのかジェラシー」を乗り越えた先の「お前たちにこの賞の本当の喜びはわかるまい!!」

そもそもマンガ家にとって、小学館漫画賞はどのような存在なのだろうか。自身も2015年に「アオイホノオ」で第60回小学館漫画賞を受賞した島本はこう語る。

小学館で連載していると毎年、小学館漫画賞の事務局から 「どのマンガが賞に相応しいか、推薦してほしい」旨の葉書が届く(※編集部注 / 推薦作を求める案内は、マンガ家のほか評論家、雑誌・新聞編集者、関係文化団体、書店関係者などにも展開される。審査員を務める以前から、島本のもとにも推薦作を募集するハガキが届いていた。なお小学館漫画賞では一般読者からも推薦作を募っている)。
自分の作品を推薦したいのは山々だが、その自分の著作が人気などでほかの作品を圧倒している状況でもない限り、なかなかそう書くわけにはいかない。だからと言って他作品をここぞとばかりに推薦するわけでもなくハガキを机の横に置いたままスルーしていると、そのうちに「この作品が受賞作に決まりました」と言う連絡が来て、よろしければ授賞式にどうぞ……という流れになる。そこで多くの小学館の漫画家は「ああ、今年は要するに俺はこのマンガに勝てなかったと言うことか……」とかなり凹む。特に自分が面白いとも思っていないマンガが受賞した年などは「ふざけんじゃねえぞ俺のマンガがこれに劣っていると言うのかジェラシー」で頭がおかしくなりそうになる。勝手に大ダメージを受ける瞬間である。連載を持っていてもそうなのだから連載を持っていないときなどは自分の至らなさにのたうち回る。

そんな苦しい瞬間が1年に一度、必ず訪れる。それが小学館であり、小学館漫画賞である。
小学館以外のマンガ家さんたちがどう思っているのかはわからない。だから私が小学館漫画賞を50代でやっと偶然のようにいただいたときに私は他社のマンガ家と若手のマンガ家に「お前たちにこの賞の本当の喜びはわかるまい!!」と言うようなことを言った。笑いも取れたがもちろん半分以上本気である。たとえ部数がそれほど出ていなくても、賞さえいただいたらなんか小学館に貢献したようなそんな気にさせてくれる。それが小学館漫画賞だ。

審査員として私は受賞者に対して式と祝賀会のときに散々褒めちぎる事を仕事のひとつとしている。本当はすべてのマンガが褒めちぎられるべきだが、やはり賞がきっかけとなれば私の口もものすごく饒舌となるものである。(島本)

第64回から審査員を務めている島本。第68回小学館漫画賞の贈呈式で講評を担当した際には、受賞者たちを称えながら「(賞を)受賞するって大変なことですから! 才能と努力と運の3つがないと獲れないんですよ。私はハタチでデビューして50代まで獲れなかったですから! 大変なことなんですよ!! ずっと(賞を)獲れないで、苦虫を噛み潰した顔で悔し涙に暮れながら今でも机に向かっているマンガ家はいるんですよ! それがここに、スポットライトを浴びてここに座れるということはどれだけすごいことか!!」と熱弁していた。

また第69回の贈呈式では「葬送のフリーレン」の講評し、「マンガを描き始めてから40何年経っているマンガ家の私が、未だにワクワクする物語に出会えたということが本っ当にありがたい。山田鐘人先生、アベツカサ先生、賞を獲ったからといって安心せずに!我々読者をもっともっと楽しませていただきたい!!」と力の限りエールを贈っている。

ちなみに、YouTubeの「SHOGAKUKANch」では島本が2015年に「アオイホノオ」で第60回小学館漫画賞一般向け部門を受賞した際の、貴重なスピーチ映像が今も公開されている。贈呈式の映像が一般公開されることはほとんどない。動画では「マンガ家生活32年、どれだけこの賞が欲しかったか! (ほかの受賞者を見ながら)この若い奴らにはわからない……!」と顔を歪ませながらも、受賞の喜びを言葉にする島本の姿が見られる。

余談だが、こういったマンガ賞の贈呈式は晴れの舞台であることやステージを見守る関係者の多さからか、作家はもちろん講評を担当する審査員のスピーチからも独特の緊張感が伝わってくることがある。しかし島本ほど腹の底から声を出し、会場の空気を一変させる登壇者にはなかなか出会えない。

「アニメやマンガ」とひとからげにされがちだけど、マンガはマンガ

今年行われた第69回の贈呈式で、絹田村子の「数字であそぼ。」について講評した後、ブルボン小林はその場にいるだけではない、すべてのマンガ家に語りかけるようにこう話した。

「マンガファン代表としてここで選考していますが、私の本業は小説家で、小説家の知り合いがたくさんいます。仕事柄、マンガ家の知り合いもたくさんいるのですが、小説家よりマンガ家のほうが間違いなく孤独です。マンガはヒットすることが大事で、それがやりがいになると思うのですが、小説の世界は『評』や『賞』がとても充実していて、売れ行きや愛読者の生の声とは違う“評”がある世界です。

小学館漫画賞はすごく大事な賞だと思います。(マンガ家にとって)売れ行きとも、読者の生の声とも違う、評価の言葉はすごく大事。これからも小学館漫画賞は充実していってほしいし、マンガ好きとしてマンガ家の皆さんにもがんばってほしい。マンガが好きだから、選考委員を頼まれるうちは(自身も)全力でやっていきたい」(ブルボン小林)

マンガ家に対する敬愛と、審査員を務めるうえでの覚悟を感じる言葉だった(本記事の最後ではマンガ賞に対する思いを、ブルボン小林本人により詳細に綴ってもらっている)。そんなブルボン小林に、マンガ界において小学館漫画賞とはどんな賞であると思うか、また現状感じる課題について聞いてみた。

講談社漫画賞と並んで、「歴史がある」そのこと自体に意義がある賞だと思います。
大きなヒットがあって中堅になりつつある人が候補になることが多く、そのキャリアの中で強い励みになっているなあ、と(授賞者の喜びっぷりを横で見ていて)思います。

小学館漫画賞はアニメ化やメディア化されたもの、もしくはそうなりつつあるものの候補入りが多い傾向があります。そうではない、マンガならではの(むしろ映像化しにくいくらいにマンガの個性が際立っている)候補が、もっとあってほしいとは思います。
逆にいうと「メディア化する/しそうなほど勢いがある」ことを評価し、さらに勢いに弾みをつけてあげたい、という意図で候補が選ばれているのだなあ、とも。(ブルボン小林)

審査を務めるうえではどんなことを意識しているのだろう。

アニメや小説ではない「マンガならでは」の特性を感じ取れるかどうかを大事に読んでいます。「アニメやマンガ」とひとからげにされがちだけど、マンガはマンガです。(ブルボン小林)

マンガという文化そのものに対するリスペクトを感じる回答だった。同じ質問を島本にも投げかけてみた。

何か意識しようと思っても作品を読み始めるとなんと言うか「邪念」はすぐに消し飛んで「面白いかどうか」「独自の語り口調を持って作品を紡いでいるか」「勢いが最初だけではなく、どんどん加速しているのか」みたいなごく当たり前の純粋な感想が脳内で繰り広げられる。
いわゆる「普通の読者」になってしまいますので、特に何も意識してはいないです。自分の作品を読んで良し悪しを判別するように、同じ感覚で読み込みます。これは小学館漫画賞に限ったことではありませんが、審査員の皆様は「自分の得意ジャンル」には厳しいような気がします。だからと言って大きく結果が変わるわけではありませんが。

審査自体は審査員の皆様ガチで挑んで来ますので、意見が分かれでもしたらとんでもなく時間を使って意見が交わされます。自分があまり惹かれなかった作品をほかの審査員が解説することによって見方が変化して光り輝くこともあり、優れたマンガ作品について語り合う審査会の時間はとてもエネルギーを使って疲弊しますが、物凄く充実した楽しい時間でもありますね。(島本)

いろんな分野の方々に審査をお願いしている意味がある

選考委員会には島本らマンガ家のほか、ブルボン小林のような小説家・コラムニスト 、最新の第69回であれば恩田陸(小説家)、川村元気(映画プロデューサー・小説家)という、マンガ以外の分野で活躍する面々も名を連ねる。年度によって顔ぶれは変わるが、過去には女優の麻生久美子が参加していたこともあった。審査員はどのような基準で依頼しているのだろうか。

「厳密な基準はありません。どういう分野で活躍されている方だとしても、マンガに造詣が深い方にご依頼しています。マンガ家さんが作り手視点で見る部分もあれば、ほかの審査員の方が読者目線で見る部分もあるかもしれない。マンガって、何をもって面白いと感じるかは本当に人それぞれですよね。ですので、いろいろな背景を持たれている方に審査員を務めていただくことで、幅広いジャンルの中からいい作品を選んでもらいたいと思っています」(西巻氏)

最終審査が実施されるのは、結果発表日の当日。午後に話し合いがスタートし、夜には結果が発表となる。自分が最終選考にノミネートされている作家だとしたら、その日は1日気もそぞろで落ち着かないだろう。

西巻氏によると、審査員による各作品への講評内容は事前に選考委員会内で共有され、お互いが各作品をどう評価しているかを把握したうえで話し合いが行われるという。どんな雰囲気の中で議論が交わされるのだろうか。審査の経験のない一般人にはあまり想像がつかない。

「僕が事務局に参加してから見た限りですと、皆さん和やかですよ。でももちろん緩い感じではなく、皆さんその道の第一人者の方たちですので、議論的には白熱しています。それぞれ見る角度というか視点が違っていて、そのあたりがいろんな分野の方々に審査をお願いしている意味があるなと感じます。それぞれの意見を聞いて『ああ、もっともだ』と、みんなが納得するような、視点は違うんだけれども評価が集まる作品は、審査員全体としての評価も高くなってくると思います」(西巻氏)

最終審査はおよそ3~4時間ほどかけて行われ、結果が決まるとすぐに各編集部や担当編集に通知される。過去には自分は選ばれないだろうと油断していたところ、担当編集からの電話で受賞を知らされ慌てたというマンガ家の話も聞いた。第69回にて「トリリオンゲーム」で小学館漫画賞を受賞した池上遼一は、担当編集から受賞の報せが届くと、自宅近所の寿司屋で編集者とともに待機していた稲垣理一郎のもとに駆けつけ、稲垣の満面の笑みを見た瞬間に思わずハグをしたというなんとも微笑ましいエピソードを披露していた。

数字とは別の価値観として作品が評価されたと感じてもらえているなら、すごく光栄なこと

小学館漫画賞に限った話ではないが、マンガ賞などの授賞式におけるスピーチは、作者のマンガに懸ける思いが短い時間の中でぎゅっと凝縮された形で言語化されており、たびたび感銘を受ける。

筆者が初めて小学館漫画賞の贈呈式に参加した2016年(第61回)、児童向け部門を受賞した(月刊コロコロコミックで連載された)「ウソツキ!ゴクオーくん」の作者である吉もと誠は「落ちこぼれでもバカにされても、失敗してもパッとしなくても、好きなことを諦めないでがんばれば人生が楽しくなると、自信を持って読者の子どもたちに伝えることができると思った」と語り、「コロコロ最高ー!!」と拳を突き上げて叫んだ。そして笑顔を見せた。

第69回の贈呈式に登壇した「逃げ上手の若君」の松井優征は、先述した「小説家よりマンガ家のほうが間違いなく孤独」というブルボン小林の言葉に触れながら「闇の中でマンガを描いている気持ちでした。その中で小学館漫画賞をいただいたというのは『君がやってきたことは間違ってなかったんだよ』というのを言っていただいているような気持ちになりました。これからも自分がマンガを描く活力になると、改めて思いました」と喜びを滲ませていた。

西巻氏はこの言葉を受けて、「コミックスの売り上げだったり世間で大きな話題になったり、もちろんそういったことも作家さんにとってはうれしいことだと思うのですが、小学館漫画賞に選ばれたことを、数字などとはまた別の価値観として、作品が評価されたんだというふうに感じていただけているのだとしたら、すごく光栄なことだと思います」と話す。

一方で「『小学館漫画賞を受賞した』という話題自体が、普段マンガを積極的に読まない方にとっても『あ、そうなんだ』と興味を持ってもらえるといいなと。受賞をきっかけに『こんなマンガがあるんだ』というふうに知ってもらえるような存在になったらいいなと、そこはこれからの課題でもあるのかなと思っています」と、事務局の1人としての展望を語ってくれた。

「客観的に優れている」という誰かの証明が、創作する者の孤独を長く強く照らすはず

ここまで小学館漫画賞について綴ってきたが、マンガ賞は「小学館漫画賞」や「講談社漫画賞」「手塚治虫文化賞」のようにいち企業が主催となり優秀作品を決定するもののほか、有志による実行委員が企画する「マンガ大賞」、また地方自治体や国が主導となるものなど、さまざまな種類がある。直近だと4月上旬にマンガ大賞2024が発表され、今年は泥ノ田犬彦の「君と宇宙を歩くために」が大賞に輝いた。

書店のPOPや単行本の帯、SNSで「●●賞受賞作品」などの文字を目にし、新たなマンガと出会うきっかけを得たことのある読者もいるだろう。

そういった数々のマンガ賞の目的や意義について、島本とブルボン小林はどのような考えを持っているのか。またマンガ賞がマンガ文化や業界に与える影響についてどんな希望を抱いているのか、最後に聞いてみた。

マンガ家は褒められることに飢えていますので、賞はあればあるほどいいのではと私は思っております。コミックスが売れまくっているマンガ家さんは達成感があると思いますが、「そうではないけれどこのマンガに賞をあげたい」と言う作品もたくさんあります。マンガ家さんにもよりますが、とにかく作画時間が人生の多くの時間を潰してしまうと言う悲惨な職業ですので、承認欲求を満たしてあげないと可哀想すぎます。いろいろな賞が、一方向的な「売れ行き」「面白さ」「人気度」だけではない切り口でさまざまなマンガ家さんに喜びを与えてあげて、気付かなかった読者の興味を惹き、売れ行きをよくしてあげるのはとても大切なことだと思います。(島本)

マンガ家のよすがになるのは「売上」と「生の読者の声」です。ほかのジャンル(小説や映画など)は賞や評論が充実しているのにくらべると、かなり手薄です。
「評論」とか「賞」といった厳めしいものや権威ぶった評価なんかより、読者の熱い応援の声の方がよほどうれしい、なんていうマンガ家さんもいます。

それは分かるけど、読者の応援というのは残酷なくらいに刹那的だし、自己愛が混じったものも含まれます。売り上げも絶対に励みになるけど、もちろんそれも残酷なものです。
「人気」や「好み」と別の「客観的に優れている」という誰かの証明が、創作する者の孤独を実は長く強く照らすはずで、賞はそういうものだと思います。
たとえば読売文学賞は小説、詩歌、評論、演劇までに受賞させるけど、マンガ部門はない。ノーベル文学賞はあるけどノーベルマンガ賞はない。売れ行きとも、個々の応援とも違う「(歴史や権威をも行使しての)価値の明示」が、漫画にはもっともっとあっていい。

メディア化されないようなところを掘り下げるマンガにも優れたものがたくさんあるし、賞はどかどかやってほしいし、やるなら、どれもちゃんと続けて、歴史を作ってほしいです。(ブルボン小林)