マンガ好きなら誰しも、心の中に“自分だけの名作”を持っているはず。誰かが特別に面白いと思ったその作品は、ほかの誰かにとっても特別なものになりうるのではないだろうか。そんなマンガをもっと知りたいという思いから、コラム「私の名作」はスタートした。
このコラムでは人一倍マンガを読み、また紹介してきたであろう人々に「あなたが名作だと思うマンガは?」と問いかけ、とりわけ思い入れのある、語りたい1作を選んで紹介してもらう。第1回にはマンガ評論家・ツクイヨシヒサ氏が登場。野球マンガの評論を得意とする彼が挙げてくれたのは、あだち充の水泳マンガ「ラフ」だった。
文 / ツクイヨシヒサ
亜美はあだち充作品、随一のヒロイン
いきなりだが、スペースが足りない。「ラフ」はあだち充の最高傑作だ。正直、書籍3冊分ぐらい書きたい気持ちなのだが、そうもいかないらしい。なので、書きたいことから書く。
「ラフ」は水泳マンガである。主人公は競泳選手の大和圭介。ヒロインは高飛びこみ選手の二ノ宮亜美。2人はライバル関係にある和菓子屋のひとりっ子だ。祖父の代に商才で敗れた二ノ宮家のほうが大和家を敵対視しており、亜美も幼い頃から圭介に恨みを抱いている。一方的に憎まれている圭介も、亜美に対していい印象を抱いていない。2人の心に距離感があるという出発点がまず、あだち充作品にしては珍しい(大抵の場合、女性のほうがデフォルトで主人公へ好意を抱いている)。この設定が、じつにうまく機能している。同じ高校の水泳部に所属した圭介と亜美は、お互いを意識しているうちに、だんだんと相手の優しさや魅力に気づいていく。2人の距離が近づくごとに、読者も彼らの内面を知ることになり、シンクロするように好意を抱いていくという構造になっている。
特に、亜美が可愛い。あだち充作品のなかでも、随一のヒロインだと思う。のちに圭介の恋のライバルとなる、水泳の自由形100メートル、200メートルの日本記録保持者・仲西弘樹が曰く、亜美は「他人の長所をさがす天才なんだ。偏見にまどわされないで素直に相手をみる目をもっている」「そのくせ、本当の自分の気持ちを他人に伝えるのはヘタクソなんだよ、あいつは」という。この言葉が、後半に至る圭介と彼女の淡く切ない恋の行方を暗示している。
亜美の人柄を伝える表現として秀逸だと思うのが、中学時代から彼女に片思いをしている野球部の緒方剛と、作中で初めて顔を合わせるシーンだ。「おっはよ♪ 緒方くん」と満面の笑みで、腕を振りながら歩いてくる亜美。「おう、なんだ、ニノ宮か」と緒方。「おう、ニノ宮だ」と即答する亜美。自分に好意があるとわかっている異性に対し、この屈託のない態度。彼女のほうから声をかけているところにも注目したい。いい歳になった今だからわかるが、ホレてはいけないタイプの女のコだ。同級生の木下理恵子によると「(あの娘は)だれとでも気軽にわけへだてなく話すから。ハッキリしないのよね、本命の男子が」とのこと。要するに、小悪魔系なのである。
最も印象深い“あだち去り”も「ラフ」にある
その緒方剛もカッコいい。彼は主人公である圭介の親友だ。天才的な野球部員であり、水泳マンガである本作にあだち充お得意の高校野球要素を加えている。甲子園を狙える強豪校の誘いを蹴って、亜美のことを追いかけてきた緒方は、彼女のことを一途に思い続ける。「おれが甲子園にいけたら、あいつはきっと自分のこと以上によろこんでくれるよ。他人のことを本当にうれしそうな顔してよろこぶんだよ、あいつは。ただ、それだけさ」と彼はいう。ニヒルなやつだ。言葉どおり、亜美は緒方の試合をスタンドから一生懸命に応援してくれ、彼の悔しい姿を目にしたときは涙も流してくれる。要するに、悪女の深情けなのである。振り回されたい。
ストーリーの後半、緒方はある決断を下す。自らの野球生命をかけた決断である。寮で同室の久米勝は、緒方の人柄について「一見自分勝手に生きているようにみえて、人一倍まわりに気を配っているんだよな。あいつは……」と話す。実際、圭介と亜美の関係が変化していくのを敏感に察知し、誰よりも心のなかで応援していたのが緒方だった。彼が作中で見せる思いやりは、読者の胸を打ち、圭介の心にいつまでも残り続ける。あだち充作品には、俗に「あだち去り」と呼ばれる構図が用いられる。片手を挙げながら、背中を向けて去っていく構図だ。別れ際の表情をあえて隠すことで、去りゆく者の胸中への想像力を膨らませ、深い余韻を残す効果がある。あまた登場する「あだち去り」のなかでも、緒方の残していった後ろ姿はもっとも印象深い。立ち去る彼の優しさと男らしさ、見送る圭介たちの寂しさとやり切れなさ。どうしようもない現実。複雑な感情が絡み合う名シーンだ。
主人公の圭介についても語らねばなるまい。あだち充作品における、いわゆる「主人公のひな形」の範疇にある彼だが、ほかの作品と比べると少し強気で男らしい設定のように感じる。無礼な相手に対しては腕力に訴えることもあるし、亜美との心のすれ違いが生じていた初期には、悲しい表情で「おまえなんか大っきらいだ」と伝えたこともある。ただ、あだち充らしい飄々さも併せ持っており、本人は「負けたくやしさをバネにするとか、自分の力を120%ひきだすとか。そういう気力、執念、根性みたいなものがたらねえんだよ、昔から」と自己分析している。事実、彼は中学時代に100メートル自由形で全国大会3年連続3位という、よくいえば安定した、悪くいえば成長のない実績を持っている。高校ではあっさりと平泳ぎに転向するといい出し、驚くコーチを「あれ? 先生は自由形の1位と平泳ぎの1位を差別するんですか」と説き伏せてしまう。
その圭介が、ヒロインを経由する形で、譲れない勝負へと挑んでいくという展開は、あだち充の面目躍如たるところだ。「ラフ」においては、主人公とヒロインの家がライバル同士であるため、2人の距離が近づいていくに連れ、現代版「ロミオとジュリエット」のような関係が浮き彫りになってくる点も見逃せない。
「タッチ」で好きになり、「ラフ」で沼にハマった
作品全体で見た場合、全12巻という長さもちょうどいい。個人的に、あだち充は1本のストーリーを追いかける長編作家ではないと思っている。重厚長大な物語よりも、洒脱で洗練されたエピソードを得意としている。本人も自覚があるようで、「連載の途中でも、最終回が描きたくなっちゃうんです。もともと読み切り漫画を描くのが大好きだから、まとめたがりなんだと思う」(※1)、「作者としては『H2』(全34巻)は途中でだらけているなって感じがどうしてもしてしまう」(※2)などと語っている。ならば、短編ばかり描けばいいかといえば、ちょっと違う。独特の「間」が多いため、読者としてはやや読み応えが薄いのである。あだち充の適正はやはり中距離。心に残るショートエピソードを積み重ねていき、登場人物たちを立体的に見せる作家だと考えている。全12巻はまさに適正距離。ほぼムダのない構成は、あだち充の頂点といっていい。1巻が高校1年生の入学から始まり、最終巻が3年生で終わるというパッケージングのよさも評価したい。
「ラフ」の連載が開始されたのは、「タッチ」が社会現象を巻き起こした後の1987年。大ヒットを飛ばした作家が、以降の作品に恵まれず、忘れ去られていくことは少なくない。だが、あだち充は「ラフ」を送り出したことにより、その才能にはまだまだ続きがあり、今後も深化していくことを世間に知らしめた。もうひとつの代表作である、「H2」が生まれる前夜の話だ。
自分自身を振り返っても、「タッチ」であだち充作品を好きになり、「ラフ」で沼にハマったという自覚がある。セリフのセンス、「間」の取り方、表情を含めた画力など、最高峰のあだち充がすべて詰まった作品だと思った。大人になってマンガ評論家を名乗るようになった今も、あだち充という作家を研究し続けていられるのは、「ラフ」に出会ったときの衝撃が変わらず心に残っているからだ。直接的な意味において、人生を少し変えられてしまったのである。願わくば、自分と同じように「ラフ」で人生を少し変えられてしまう人が増えてほしい。案外、悪くないはずである。
※1:「少年サンデー1983」(小学館)あだち充インタビューより。
※2:「おあとがよろしいようで」(小学館)巻末特別企画あだち充最終回インタビューより。
※文中の♪は2連16分音符が正式表記。