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10年前の今日、何をしていましたか? ~ 東日本大震災10年特集 コミックナタリー編

2011年3月11日の東日本大震災の発生から、本日で10年を迎えた。

国内観測史上最大となったマグニチュード9.0の地震と、あらゆるものを飲み込んだ巨大な津波、そしてそれにより引き起こされた福島での原発事故──ちょうど10年前に発生したこれらの災害は、東日本の太平洋岸一帯に甚大な被害をもたらした。時間の経過とともに人々の関心は徐々に薄れつつあるが、被災地の復興は今もなお道半ばの状況だ。

震災の記憶をこれからも語り継ぐべく、このたびコミックナタリー、音楽ナタリー、お笑いナタリー、映画ナタリー、ステージナタリーは5媒体合同で「10年前の今日、何をしていましたか?」というテーマの横断企画を展開。各ジャンルで、さまざまな人々に地震発生前後の出来事やその後の生活を振り返ってもらう。

コミックナタリーではいがらしみきお、井上和彦、ひうらさとる、菱田正和、安野希世乃に寄稿を依頼。被災者として、東北の出身者として、あるいはチャリティ活動を精力的に行っている立場から、自らが体験した震災の記憶をつづってもらった。

構成 / 齋藤高廣

寄稿者一覧(※50音順)

コミックナタリー編

いがらしみきお / 井上和彦 / ひうらさとる / 菱田正和 / 安野希世乃

音楽ナタリー編

新井ひとみ(東京女子流) / 石田亜佑美(モーニング娘。’21) / 菅真良(ARABAKI PROJECT代表) / 橘花怜(いぎなり東北産) / 本田康祐(OWV)

お笑いナタリー編

赤プル / あばれる君 / アルコ&ピース平子 / ゴー☆ジャス / レイザーラモンRG

映画ナタリー編

小森はるか / 園子温 / 廣木隆一 / 宮世琉弥 / 山谷花純

ステージナタリー編

柴幸男 / 長塚圭史 / 萩原宏紀(いわき芸術文化交流館アリオス) / 長谷川洋子 / 横田龍儀

いがらしみきお

 2月13日にあった震度6の地震は、私に10年前の東日本大震災の記憶を呼び覚ますには十分な激しい揺れだった。宮城県が地震ばかりだと感じるようになったのは、1978年の宮城県沖地震以降だと思うが、その前はそれほど地震が多かった記憶はない。それにしても近年は震災や台風などの被害によって、日本が世界有数の災害国であることを改めて知らされたが、コロナ禍でもみんな浮足立つ気配はないし、私も相変わらず仙台市に住み続けている。

 10年前の3月11日、いつものように10時過ぎから仕事場に来て、アシスタント2名とともに漫画を描いていた。午後になってから起きた震度3ぐらいの揺れは、宮城県ではよくあるいつもの地震だとタカをくくっていたら、どんどん地鳴りを伴う激しい縦揺れになり、それは私の地震という概念を通り越して、なにか人為的に起こされた悪意の塊のようにさえ思え、場違いな怒りがこみ上げて来たほどだった。その間、私は机につかまりながら「あああっ」などと言葉にならない声で叫ぶしかなかったが、アシスタント2名は凍りついた表情のまま、ただただ無言だった。彼らが声を発したのは、何度目かの揺れが弱まり、仕事場のほとんどの物が落下し倒れた中を、なんとか動線を見つけながら通路に出たあとに言った「みんな外に出てますよ」という言葉だった。ビルの裏にある駐車場を見下ろすと、1階にある飲食店のおかみさんや店員さんが、我々に向かって「早く早く」と叫びながら激しく手招きしている。通路と階段がパッカリと離れてしまったすき間を飛び越えて下に降りて行くと、屋上の給水塔が、まるでゴムで出来ているようにグニャグニャと揺れながら水を撒き散らしていて、おかみさんはその給水塔が倒れると思ったのだそうだ。

 駐車場にいる間も揺れは続き、我々のいるビルやその駐車場の背後にあるビルからも、なにかがバラバラと剥がれ落ちて来る。危険なのでアシスタントのクルマの中に避難したが、揺れは弱まりはするものの一向に治まる気配がなく、余震が来るたびにクルマといっしょに我々の体も前後左右に揺れる。

 駐車場にいたのは、たぶん30分ぐらいのものだったと思うが、揺れが治まったのを見はからい、仕事場に戻って中を覗いてみると、すべての物が落下し、倒れ、積み上がった状態で、なにかしようにもそんな気さえ起きない。余震もいつまで続くのかわからなかったので、なんとかカバンだけ持ち出して、今日はそれぞれ家に帰ることにする。そのあとはアシスタントのクルマに同乗しつつ、渋滞に巻き込まれながら、いつもなら10分ほどの距離を40分ぐらいかけて帰ったが、車中、携帯を取り出してニュースを見ると、一直線の白い筋になった津波が、仙台湾に押し寄せて来る映像が繰り返し流れていた。

 果たして家はどうなったのか不安なまま帰ると、なにやら妻が路上で向かいの奥さんと立ち話しているのが見えて拍子抜けしてしまったが、「家はどうなった?」と聞くと、「メール読んでないの?」と言われたので、あわてて携帯を開くと、40分ぐらい前のLINEが今頃届いていて、そこにはひらがなで「いえはかいめつ」とあった。驚きつつ家の前に立つと、ドアは開け放たれたままになっていて、そこから覗く玄関だけを見ても、確かに「家は壊滅」状態だった。そのあとは、押し寄せる余震のあまりの凄さと寒さに、近くの小学校の体育館に避難したが、毛布とストーブはあったものの、損壊した家にいるのと同じぐらい寒くて、行方不明のネコのことも気になったので、ひと晩だけで家に戻った。

 これが私の3.11当日のあらましだが、震災が私にもたらした影響と言えば、「I」(アイ)という漫画と「誰でもないところからの眺め」の2本を描いたぐらいのもので、ボランティアに出掛けたとか、被災者のための活動をしているとか、そういうこともなく、あくまで私の個人的な体験のままだ。ただ、あの瓦礫だらけの風景を脳裏に浮かべると、今でも、あの時我々は変われるはずだったのに変われなかった、という想いはある。しかし、どう変わるべきだったのか、誰も言えなかったし、私にもわからなかった。

 2年前、ある新聞の県内版の正月企画で、宮城県が独立国になったらどういう国にしたいかという初夢企画の提案があった。そこで私の考えた宮城国とは、農林水産で立国し、株と会社と銀行を廃止し、安楽死も認めるなどという無茶な案だったが、それはそれで今の資本主義社会と消費社会ではない世界を夢想したものだったろう。

 今は、コロナウィルスに翻弄される世界を見ながら、あの時と同じことを思っている自分がいる。我々は、変われるかどうか以前に、今とは別な世界が必ずあることを忘れてはいけないのではないか。

プロフィール

いがらしみきお

1955年1月13日生まれ、宮城県出身。マンガ家。1979年、漫画エロジェニカ(海潮社)に投稿した「’80 その状況」でデビュー。1986年より連載を開始した「ぼのぼの」で、1988年に第12回講談社漫画賞青年一般部門を受賞。2010年からは月刊IKKI(小学館)にて「I【アイ】」を連載し、手塚治虫文化賞に3年連続でノミネートされた。2015年には東日本大震災から3年後の宮城県を舞台にした「誰でもないところからの眺め」を刊行している。ほか著作多数。

ぼのねっと ぼのぼのといがらしみきおの総合情報サイト
いがらしみきおの記事まとめ

井上和彦

2011年3月11日。その日私は車に乗っていました。
14時46分、信号待ちをしている時、近くの店のガラスが音を立てて揺れ始めました。自分の車も後ろから誰かに押されているような感覚でした。
な、なんだ? 初めは訳がわからなかったのですが、10秒くらいして、あ、地震だ。と気が付きました。その揺れはどんどん大きくなりました。
あたりの家から人が飛び出してきました。後のニュースで知ったのですが、震度5強でした。
事務所の養成所の生徒たちがアトリエ公演の稽古をしていたので、稽古場に急ぎました。稽古場の生徒たちは、怯えて泣いている子もいました。
ニュースを見ると、東北地方で大きな地震、津波の映像が次々と映し出されていました。東京も交通機関が全てストップ。
生徒達を自宅に連れて行き、電車が動くまで待機することにしました。その間も余震で何度も揺れました。
やがて、翌日のイベントの中止の連絡が……。時間を追うごとに各地の被害の模様がテレビに映し出されました。福島の原発も……。

このままでいいのか、自分に何か出来ることはないのか……。翌日のイベントで一緒に出演するはずだった関智一さんに連絡を取りました。
日本が大変な事になったよ、何か出来ることはないかと仲間に声をかけ、関智一さんの事務所の会議室に集まりました。
何が出来るかわからないけど、とにかくその時はいても経ってもいられなかったのを覚えています。
相談をしている間も震度4くらいの地震が何度もきました。東北の方々のことを思うと胸が張り裂けそうでした。
そして、3日後の14日に「声援団」と言う名の声優を中心としたボランティアチームを立ち上げました。できる限りあちこちでチャリティライブをやりました。
石巻の石ノ森萬画館の前で皆さんに集まっていただいたり、「まるごみ」と言うボランティア団体の代表KOUSAKUさんに誘っていただき、陸前高田にも行きました。
集まれる人で出来ることをやっていこう、くれぐれも無理はしないで!その時来られる人が声援団!を合言葉にできることをやってきました。

あれから、10年……。沢山の絆をいただきました。

その間にも、各地でいろいろな災害が起こっています。そして、コロナも……。

少しでも皆さんに笑顔になっていただきたくて、これからも活動を続けていきます。

プロフィール

井上和彦(イノウエカズヒコ)

3月26日生まれ、神奈川県出身の声優。B-Box所属。主な出演作に「夏目友人帳」(ニャンコ先生/斑役)、「NARUTO-ナルト-」(はたけカカシ役)、「美味しんぼ」(山岡士郎役)、「機動戦士Zガンダム」(ジェリド・メサ役)、「サイボーグ009」(島村ジョー役)など。東日本大震災の発生を受けて2011年3月14日に声優を中心としたボランティアチーム・声援団を結成し、精力的にチャリティイベントを行っている。

井上和彦 | B-Box
井上和彦オフィシャルブログ「風まかせ」
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ひうらさとる

その日はいつものように私は自宅兼仕事場で原稿を描いていて、昼ごはんの後のうつらうつらする瞬間に大きな揺れを感じました。
私は実はとても地震の揺れに疎いタイプで大阪から上京したばかりの頃は「東京は地震が多いというけど、友達が来た時しか起こらないなあ」と思っていたほどなのですが。
3月11日のその地震は作画用のワコムの32インチの液タブを押さえながら「これは…私が上京してから一番大きい揺れだ!」とさすがに実感し恐ろしくなりました。
すぐに近所のカフェで働いていた夫に連絡して、1歳半の娘が通う保育園に向かってもらいました。
娘たち1歳の保育園児さんはみんな防災頭巾をかぶって園庭に集まっていたそうです。ただでさえ赤ちゃん頭身の子供たちが頭巾で3頭身くらいになっていて、後々写真を見ると笑ってしまう可愛らしさなのですが、当時はただただ無事で良かったと胸を撫で下ろしました。

TVのニュースをつけるともちろん全てのチャンネルが震災の速報になっており、(今では震災が起これば当然のことですが)キャスターの女性が室内のスタジオで防災ヘルメットを被って報道していたのを鮮烈に覚えています。
「これはとんでもないことが起こっているのでは……」とTV画面に釘付けになりました。
夫は娘を連れ帰ってくれた後も近所の友達などが無事か確認しに走り回っていました。
当時私たちは東京の割と中心部に住んでいて、美容院が多い地域だったのですが避難所の小学校でパーマ中のお客さんと美容師さんが「余震が来る前にパーマ液足しますね!」などという会話の光景も見られたようです。
そして夕方、帰宅困難になった友達や地震が怖い一人暮らしの友達などが我が家にやってきて計10人くらいで鍋を囲みました。
TVでは相変わらず信じられない光景が次々と映されますが、確か当日の夜は千葉のコンビナートの火災の方が大きく報道されていて、東北の状況は断面的に入るような感じだったと記憶しています。
夫と同じフロアの店舗で働いているカップルはなんと次の日の3月12日が結婚式の予定で、関西出身の彼らの親戚は新幹線で足止めを食らっているようでした。
誰しもが不安を抱えながらもある種の興奮状態にあり、夕飯は賑やかに終わりました。
なかなか寝付けずいつもは夜はしない仕事に取り掛かったりしてみました。
Twitterでは不安な情報、デマ、励まし合いが飛び交っています。
黙々と原稿を描く私に同じ漫画家の友達が「そんなの描いても来月の載るかわからないよ? なんで?」と問いましたが多分自分の気を落ち着けるため写経のように描いていたんだと思います。
この日から半月後には家族や友人たちと考えた漫画家さんたちのイラストを提供してもらって壁紙を配布するチャリティを実行したり、また半年後には東北にボランティアに行った友人の提案で「ストーリー311」の企画を立ち上げたりするのですが。
その日当日の私はただただ事態が見えない不安に飲まれないよう必死に漫画を描いていました。
311の震災から十年、長いようなあっという間のような十年です。
まだまだ復興とは程遠い地域も多い現実があると思いますし、この十年の間それ以外の問題も多数持ち上がっていると感じています。
あの当時3頭身だった娘は私の足のサイズを追い越す小学校高学年になりました。
コロナの状況もまだよくわかりませんが「ストーリー311」でお世話になったみなさんに、今年の夏休みは娘と一緒に逢いに行ければとても嬉しいなと思います。

プロフィール

ひうらさとる

1966年、大阪府生まれ。マンガ家。1984年、なかよしデラックス(講談社)に掲載された「あなたと朝まで」でデビューする。代表作は会社ではソツのないOLだが家ではぐうたらに生活する、“干物女”こと雨宮蛍を描いた恋愛コメディ「ホタルノヒカリ」。2004年から2009年までにKiss(講談社)にて発表され、綾瀬はるか主演でドラマ化や映画化も果たした。東日本大震災から10カ月が経った2012年1月には、被災地で起こったさまざまな出来事をマンガ家が現地で取材し、描き残すプロジェクト「ストーリー311」を始動させる。同プロジェクトでは作品集が2冊、ノベライズ作品が1冊刊行されている。

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菱田正和

東日本大震災が発生した当時、私はプリティーリズム・オーロラドリームの放送を間近に控えていました。当初の予定では2011年4月2日から放送開始でしたが、震災の影響で翌週の4月9日に変更されることとなりました。オーロラドリームは制作決定が非常に遅く、企画が決まってから初めて全体で打ち合わせしたのが2010年11月、シナリオが上がったのが2011年の正月、総グロス先の制作会社が決まったのが2月頭、1話のコンテを上げたのが2月半ばという絶望的なスケジュールで立ち上げていました。3月11日の14時46分はガンダムUC4話の打ち合わせの為に、家でサンライズ第1スタジオに行く準備をしていたところでした。大きな揺れを感じ、慌てて小さな娘を抱きかかえ家の外に避難しました。宮城県仙台市出身の私は5歳の頃、宮城県沖地震に遭遇し、それ以降も度々、比較的大きな地震を経験していたので、ある意味「地震慣れ」していました。宮城県沖地震は30年に一度来るとアナウンスされており、心のどこかである程度覚悟していたと思います。東北地方に比べ東京は地震が少ない印象を持っていましたが、いつか必ず大きな地震が来るだろうと思っていました。

宮城県北部で震度7を観測したとテレビのニュースで知りました。上京して以降、宮城県では震度6の地震が何度かあり、今回もその程度だろうと高を括っていました。当然、打ち合わせはあるだろうと思い、サンライズ第1スタジオに向かいました。道中、石の塀が所々、倒壊していました。ちょうどその頃、テレビでは仙台平野を黒い津波が襲う映像が流れていたにもかかわらず、その事態の重大性を十分に理解できていなかったと思います。心のどこかに被害者はそう多くないだろう、と言う甘い認識を持っていたことに、まだ気づけていませんでした。サンライズに着くと、スタッフは皆スタジオの外に避難しており、打ち合わせは中止になったと知りました。

家に戻り、仙台で一人暮らす母に連絡を取ろうとしましたが電話はつながりませんでした。これまでの地震の時も電話は繋がらなかったので、今回も当分繋がらないだろうと静観していました。しかし時間が経つごとに地震の被害は想像を遥かに超えるほど深刻であることが分かっていきました。妻の田舎が宮城県女川町で、私自身、何度も訪れたことがある場所ですが、甚大な被害を受けているというニュースが断片的に出始めていました。(後に20メートル以上高台にある病院の一階部分が浸水したと聞きました。)親戚とは全く連絡が取れない状況となっていました。夜になり、岩手に住む兄から仙台の母と連絡が取れ無事だったと言う一報が入り、一安心となりましたが、女川の親戚の安否が分かるまで数日を要しました。(当時、Googleがやっていた情報掲示板のおかげで避難所にいることが確認できました。)

地震当日はまだ楽観視されていた福島の原発の状況が日に日に悪化していると断片的に伝えられ始めていました。福島県いわき市は母の実家で、僕にとっては慣れ親しんだ第二の故郷です。原発のすぐ脇を走る国道6号線は、子供の頃、毎年帰省するときにいつも通る幹線道路でした。その当時、原発をある種の憧れと畏怖の念が織り混ざったような複雑な気持ちで見ていたことを覚えています。福島第一原発1号機が水素爆発を起こした時、自分の田舎にはもう二度と近づくことができないのではないかという絶望を感じました。

そんな状況でもオーロラドリームを放送することは決定していました。放送開始が一週繰り下がったとはいえ、制作状況が非常に逼迫していることに変わりはありませんでした。アニメなんか作っている場合じゃないと思う一方で、こんな状況だからこそ夢のある作品を作ろうという気持ちもありました。私がその時出来ることは、一刻も早く母に顔を見せることでもなく、被災地に出向いて復興の手伝いをすることでもなく、唯一アニメを作ることだけだったからです。被災地の状況が落ち着いたら実家に戻ろうと思い、仕事に集中しようと思いました。

それからプリティーリズムは3シリーズ、3年続きました。3作目のレインボーライブ制作中、母が病に倒れ、その1ヶ月後、亡くなりました。倒れるまでの約2年半、ろくに帰省もせず、親孝行も出来ず、仕事を投げ出すことも出来ず、地元に何も返せないまま、今に至ります。仙台の実家は無くなり、福島の故郷への心理的な距離は大きくなり、東北との関わりは全くと言っていいほどなくなりました。その重大さを思い知ったのは持っていた仕事が少し落ち着いた昨年の初め頃、2020年初頭だったかと思います。心の拠り所を失ったような感覚でした。直接被害に遭われた方からすれば、私の心の負荷は非常に軽微なものではあると思いますが、震災は間接的にも大きなダメージをもたらしているんだなと今更ながら実感しています。

今は地元のために、そして東北のために何かできないか暗中模索している最中です。出来れば仙台が元気になるような、そして東北全体が活性化するようなことに力を注ぎたいと日々、思っています。もちろん、その気持ちは東北だけではなく、日本各地で様々な災害に見舞われた方のためにも役立てないかとも思っています。その手段がアニメなのかどうか、今は分かりません。震災10年を経て、「皆さんを笑顔にしたい」と言う気持ちはますます高まっています。

プロフィール

菱田正和(ヒシダマサカズ)

1972年10月21日生まれ、宮城県仙台市出身。アニメーション監督。サンライズに入社し、2005年放送の「陰陽大戦記」で監督デビューした後、多くのアニメ作品で監督や脚本を務めている。代表作の「プリティーリズム」シリーズ1作目「プリティーリズム・オーロラドリーム」は当初2011年4月2日よりオンエアされる予定だったが、東日本大震災の影響により1週間、放送開始が延期された。

菱田監督 (@aobajo2) | Twitter
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安野希世乃

私は幼少期を宮城県遠田郡の涌谷町という町で過ごしました。震災の日は、東京に出てきてちょうど10年目の年で、私は大学生でした。当時は涌谷町に祖父母が暮らしており、年に一度ほど帰省していました。

2011年3月11日は、私が声優デビューした作品の、映画館での1週間の公開期間の最終日でした。地震の時、私は当時アルバイトをしていた勤め先にいて、仕事が終わったら映画館で千秋楽とも呼べる最後の上映をもう一度観に行こう、と張り切っていたのを覚えています。デスクにいると突然大きな揺れがやってきて、棚の本や机の上の書類が落下しました。幸いにも職場は2階建ての建物の1階だったので、すぐに皆で外に出ました。建物のすぐ隣に立っていた電信柱と木が、うわんうわんと大きく揺れてしなっていたのがとても衝撃的だったのを覚えています。その日のバイトはすぐに解散となり、歩いて家まで帰りました。東京は震度5強でしたが、帰宅難民が多く出るほどに交通機関が麻痺し、首都高沿いの帰り道をズラズラと人々が行列になって帰路を目指していました。帰路の途中、電気屋さんの軒先で宮城県石巻の津波の様子が映し出されていて、多くの人が息を呑んでそのモニターを見守っていました。目の前の映像が、今宮城で現実に起きている出来事だと、とても信じられない心地でした。けれどそれは事実で…。その日のうちに祖父母とは連絡が取れ、安否が知れて安心したのも束の間、日に日に増える行方不明者数、津波の犠牲者の数に唖然とし、心を痛める日が続きました。当時僅かばかりの支援にと、デビュー作で頂いた出演料を募金しましたが、とても些細なアクションに過ぎないことは分かっていました。

そんな辛い出来事から、10年。私が声優活動を始めてからも、今年で丸10年が経ちます。その時間の中で、個人として直接的な支援活動をすることは叶いませんでしたが、声優として、東北の復興支援アニメーション『想いのかけら』に関われたことは、私にとっても救いでした。福島ガイナックスさん(現在の福島ガイナ・ガイナ)が手がけられたこの作品にて私が演じさせて頂いたのは、被災地の仮設住宅に暮らす13歳の女の子、佐藤陽菜ちゃん。失われた故郷の景色を心に持ち続けながらも、懸命に目の前の人生を切り拓いていこうとする物語でした。その後、NHK東北さまにご縁を頂き、石巻のまちの今を伝えるこども新聞を作る、こども記者たちの活動ドキュメンタリー番組のナレーションをさせて頂いたこともありました。その2つに携わったことで胸に生まれたのは、青少年の心の傷と…それを抱えながらも、大人たちの支援のもと、未来へ向かって前進するこどもたちを応援してあげたい、という想いでした。別の機会には、仙台でアイドルを目指す女の子たちを描いたアニメ作品『Wake Up, Girls!』を通して宮城を訪れたこともありました。

今や“アニメーション”は、こどもたちに向けてはもちろん、広い年代や国を超えたあらゆる場所にメッセージを、物語を伝えられる、とても価値ある創作物の形だと感じています。悔しさも、挫折も、葛藤も、奮闘も、願いや祈りも、「物語」を通して力強く伝わる感情や想いの力があると信じています。これからもアニメーションに関わるスタッフの皆様の未来が明るいことを願うと同時に、「物語」から勇気や元気を受け取ってくれた皆様が、何か一つでも悩みから抜け出せたり、小さな前進に繋がってくれたらいいな…といつも願っています。

東日本大震災からアニメーションと共に歩んで来たこの10年を振り返り、宮城で過ごした幼少期から志してきた「声優」の仕事を通してご縁が結びつき、宮城にエールを送る機会を得られたことの意味を改めて噛み締めています。これからも宮城出身の一個人として、一声優として。震災の記憶を忘れずに…誰かの心に寄り添い、背中を押せるような「物語」を伝えるアニメーションの力を信じ、「声」を届ける役目を続けていきたいと強く思っています。

プロフィール

安野希世乃(ヤスノキヨノ)

7月9日生まれ、宮城県出身。主な出演作に「スター☆トゥインクルプリキュア」(天宮えれな / キュアソレイユ役)、「冴えない彼女の育てかた♭」(加藤恵役)、「マクロスΔ」(カナメ・バッカニア役)、「アイドルマスターシンデレラガールズ」(木村夏樹役)、「Wake Up, Girls!」(小早川ティナ役)など。東北地方の復興応援キャンペーンの一環として制作された短編アニメ「想いのかけら」で佐藤陽菜役を演じているほか、2017年には宮城県石巻市の現状を伝える「石巻日日こども新聞」の記者として活躍する子どもたちを追ったNHK番組「“津波のまち”の子ども記者たち」のナレーションを担当した。

安野希世乃オフィシャルサイト
安野希世乃 (@Yaskiyo_manager) | Twitter
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