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コミティア―マンガの未来のために今できること 第2回 コミティアの歴史

35年超の歴史を持つオリジナル作品オンリーの自主制作マンガ誌展示即売会・コミティアが今、新型コロナウイルスの影響下において、存続の危機にある。5月の「COMITIA132extra」、そして9月の「COMITIA133」は中止を余儀なくされ、コミティア実行委員会は現在、コミティア継続のためのクラウドファンディングを展開中だ。コミックナタリーでは、そんなコミティアが置かれている現状と抱えている問題、そしてコミティア存続のために何ができるのかをユーザーに伝えるべく本企画を始動。第2回では、コミティアが誕生から現在の形に至るまでを追ったコラム「コミティアの歴史」をお届けする。

文 / ばるぼら ヘッダーイラスト / 旧都なぎ(ALGL)

コミティアという場所

「トライガン」の内藤泰弘、「Landreaall」のおがきちか、「イエスタデイをうたって」の冬目景、「百鬼夜行抄」の今市子、「団地ともお」の小田扉、「Fate/stay night」の武内崇、「エマ」の森薫、「委員長お手をどうぞ」の山名沢湖、「鈴木先生」の武富健治、「GUNSLINGER GIRL」の相田裕、「変ゼミ」のTAGRO、「日常」のあらゐけいいち、「暴れん坊本屋さん」の久世番子、「金魚屋古書店」の芳崎せいむ、「この世界の片隅に」のこうの史代、「ダンジョン飯」の九井諒子、「けものフレンズ」アニメ第1期監督のたつき、「ソードアート・オンライン」の川原礫、「アクタージュ」作画の宇佐崎しろ……。

ここに出世作と一緒に名前をあげた誰もが、かつてコミティアに出展していた、もしくは今もしている、と知ったら驚くだろうか? あげたのは本当にごく一部であり、実際にプロになった人の数はこの何十倍にもなる。とはいえ、プロをたくさん輩出したから価値があるイベントだと言いたいわけではない。彼・彼女らはプロになる前から参加していた人がほとんどで、結果としてプロになったことが目立つだけだ。それよりも、なぜ彼・彼女らがコミティアに出てみようと思ったのかのほうが重要である。

一度プロやアマチュアであるという条件を取り払って仮定してほしい。自分が一番描きたいマンガを発表できて、そうした作品を一番読みたがる目利きのマンガ好きが多くいる場所があるなら、時間のあるマンガ家だったら作品を試してみたくならないだろうか? それが売れる売れないにかかわらず、才能は誰かが必ず見つけ出し、評価されるべき作品は必ず評価されてきた。ある人は〈コミティアでの反響が無かったら、数作描いてそこで終わってたかもしれない〉と語り、ある人は〈コミティアならわかってくれると思ってました〉と語る(おざわゆき氏、しまたけひと氏)。魂と魂が握手するような出会いが生まれる特別な創作の空間。それがコミティアという場所なのだ。

コミティアとは何か

コミティアは1984年に始まった同人誌即売会だ。プロ・アマ問わず、マンガを描く人たちが、自分で作った本を発表・販売する場である。近年は年4回開催、参加サークルはおおよそ4000~5000、来場者数は2~3万人。マンガが中心だが、イラスト・小説・評論などの本、音楽CD、アクセサリーやグッズなども販売されている。特徴は「オリジナル作品」に限定していること。同人誌という言葉から連想されやすい、既存のマンガやアニメのキャラクターを使って描く「パロディ」や「二次創作」といったファンフィクションは、コミティアには並んでいない。コスプレ参加も禁止されている。

運営するのはコミティア実行委員会。実務担当の法人である有限会社コミティアと、約140人のボランティアスタッフによって構成されている。コミティア実行委員会は自分たちを「自主制作漫画誌展示即売会」と説明する。あえて「同人誌」という言葉を使わないのは、「同人」が、同好の士、同じ趣味の人という内輪向けのニュアンスがあるのと比較して、仲間ではない人、もっと多数の開かれた読者に向けて作品を作ろうという思いが込められているからだ。実際、100誌近い商業マンガ誌が参加し編集者が原稿を見てアドバイスをくれる「出張マンガ編集部」には、年間8000件の持ち込みがあるという。

描き手と読み手が切磋琢磨するもうひとつの舞台として「ティアズマガジン」がある。これは会場に入る際に必要となる入場チケット代わりのカタログで、ただ参加サークルが席順に載っているだけでなく、情報誌のような内容になっているのが特徴だ。作品紹介ページ「Push & Review」は読者が前回購入した同人誌からオススメを紹介するコーナーで、評価の目安として機能しているし、クリエイターや雑誌編集者へのインタビューはマンガ文化史の面からも興味深い内容である。こうした方向性は最初期から参加するマンガ家・山川直人氏の後押しと、コミティア代表の中村公彦氏がかつてマンガ情報誌・ぱふ(雑草社)に在籍していた経験が大きいようだ。ほかに、直近のイベントでサークルが提出した見本誌と「Push & Review」に載った作品の現物を一挙に読める「見本誌読書会」の開催も行っており、描き手・読み手の両方を支える土台づくりがコミティア実行委員会の特徴といえる。

そんなコミティアはどのように生まれたのだろうか。

コミティアの始まり

現在となっては意外なことだが、コミティアの生みの親は現代表の中村氏ではない。発起人であり初代代表となるのは、名古屋のサークル・JET PLOPOSTの東京支部にいた土屋真志氏と、サークル・TEAM COMPACTA主催の熊田昌弘氏の2人である。ぱふのライターでもあった土屋氏は、同誌1984年6月号で熊田氏にインタビューした際に意気投合し、新しい形の創作同人誌の即売会を始めようとした。そこでぱふで同人誌紹介コーナーを担当していた中村氏に相談し、ぱふにも協力してほしいと後援を求めたのがすべての始まりである。1984年春頃のことだった。

コミティアの前に同人誌即売会はすでにあった。コミックマーケットはもちろん、特にコミティアに影響があるのは、東京のMGMと名古屋のコミカ(コミック・カーニバル)である。創作オンリーの同人誌即売会という形式のモデルとなったのはMGMで、日本全国から200サークルが参加し切磋琢磨し合う80年代前半のMGMは、のちに中村代表が〈私にとって理想と思える即売会の姿〉と振り返ったほど。ただ、MGMは会場のキャパシティをオーバーしながらも事情で会場を大きい場所に変えられず参加者が固定化しはじめ、運動体としての限界を迎えつつあった。その代案・差別化として企図されたともいえるのがコミティアで、MGMのように全国から参加作家を集める代わりに、コミティアは全国から同人誌の委託を受け付け、直接参加サークルと委託サークルが対等にある即売会を当初は意図していたようである。実際の運営面ではコミカを参考にしたようで、それは土屋氏がコミカにスタッフとして参加し、そこでノウハウを学んでいたのが大きい。

土屋氏と熊田氏がコミックやコミュニケーションと同じCから始まる単語を辞書で探して「COMITIUM(集会場)」の複数形「COMITIA」という、古代ローマの民会を意味する言葉にたどり着く。運営スタッフは土屋氏を中心に、熊田氏のサークルの面々が10数名、中村氏の個人的つながりから10名近く、ほかに応募してきた数名で、計30名ほど。カタログ表紙イラストは広島のサークルHOT NEWS COMPANYの佐野たかし氏に依頼。こうしてコミティアの第1回は1984年11月18日、練馬産業会館で開催された。

しかし、まずまずの成功を収めた第1回、1985年3月17日の第2回を経て、コミティアはいきなり岐路に立たされる。大学生だった土屋氏が卒業し就職した途端、地方赴任が決まり、代表を続けられなくなってしまった。熊田氏はあくまでサポートのつもりだったので自ら中心になる気はないという。このままではコミティアは終わる……。そうした状況に困惑したのが中村氏だった。会社に無理を言って雑誌として後援することになったのに、いきなり終わられても立場上困る。何より始まったばかりのイベントがもったいない。

「自分が代表を引き受けるしかない」。30年以上続くことになる中村代表体制のコミティアはここから始まった。

コミティアの試行錯誤と「オリジナルVSパロディ」問題

中村氏が代表になってすぐの仕事は会場探しだった。就任後初の第3回は、飯田橋セントラルプラザ・ラムラという駅ビルの、1周年記念行事の一角を借りての開催となっている。家族連れやカップルなど一般客が行き来する場であり、出展者は気恥ずかしさがあっただろうが、これは「同人誌を仲間内だけでなく見知らぬ人に読んでもらおう」という開かれた志による決定だったという。本来は青空の下で行うはずが雨が降ってアーケード下に移動になったというオチがつくものの、ここですでにコミティアらしさを感じずにはいられない。第6回からは400サークル入る東京都立産業貿易センターに、第14回からは1000サークル入る東京流通センターにおおよそ落ち着く。

1980年代中期~後期にかけての状況について註釈を加えておこう。1985年12月頃からの「キャプテン翼(以下C翼)」、1987年夏頃からの「聖闘士星矢」、1988年冬頃からの「サムライトルーパー」といった作品の盛り上がりに象徴される、パロディ/二次創作同人誌の制作が一大ブームとなり、この時期は急速にアマチュアの描き手が増え、同人誌即売会が増えた。コミティアは二次創作は不許可なわけだから、そうした流行とは直接的には無関係ではある。一方で、描き手とイベントが増えたということは同人誌印刷所の仕事が増えたというわけで、そのぶん印刷費が安価になり、個人誌が増えていった。それまで同人誌は印刷費用を折半する意味もあって多人数で集まって作るのが当たり前だったのが、3人誌、2人誌、個人誌と参加人数が減っていく。同人誌を作るのに仲間を集めなくてもよくなったのである。そうなると同人誌に複数の作品が載ることは減り、1冊1作品のフォーマットが普及していく。パロディ同人誌の増加による印刷環境の改善は、創作同人誌の作家にも間接的に影響を与えたといえる。

ただ、オリジナル作品を描きたい・読みたい側にとって、パロディによって盛り上がる同人誌の状況に、同調できるかは別問題だった。先のMGMは、C翼本を出していたサークルはオリジナル本での参加でも拒否したほどだ。この時期のコミティアのカタログを見ると「オリジナルVSパロディ」の議論が白熱している。単純にパロディをダメと決めつけるわけではく、たとえば中村代表も〈多くのサークルがオリジナルを名乗りながら既成のパターンの縮小再生産を繰り返している〉として〈パロディの方がよほど胸を張って作品への“愛”を雄弁に語っている〉と書く(1987年3月開催コミティア第6回カタログ、以下同)。ほかにも〈創作がアニパロよりすぐれているかというと、必ずしもそうではない訳です。本の作り方、装丁など、むしろ見習わねばいけない点も多いと思います〉(伊吹真氏)、〈本の装丁、レイアウト、他どれ一つとっても、いまの創作系で匹敵しうるものは少ないと思う〉(筆谷芳行氏)といった、本作り・装丁への気配りを肯定的に見る意見も目立つ。当時のコミティアにとって、パロディの盛り上がりは、創作作家へはっぱをかける格好の材料だった。80年代のパロディ同人誌の興隆は、創作同人誌の質的向上と無関係ではなかったのである。

やがて、コミティアは1988年頃から、C翼パロディを出していたみずき健氏や、同じくC翼本を出していた高河ゆん氏らのサークル・夜嬢帝国、チェッカーズなど音楽系を出していた今市子氏と一ノ瀬柊子氏のサークル・ななつのこ合唱団などが、オリジナル作品で参加するようになり、パロディでついたファンが流れ込んでくるようになった。逆に80年代コミティアの人気サークル・RHAMPHORHYNCHUS-2の時枝理子氏は、1990年代に入ってパロディも描くようになる。作者は折々描きたいものを描き、その方向性によって出る即売会を変えるのが当たり前になっていく。

人気サークルの登場と地方コミティアのスタート

中村代表は1988年8月号からぱふの編集長に就任。以前よりも忙しくなっていたはずだが、むしろコミティアは拡大を続けていった。特にマーケットとしての存在感が増していったのが1980年代末~1990年代の特徴である。すなわち、来場者が増え、買うために行列ができ、何百部も売れるサークルが登場しはじめたのだ。なかでも内藤泰弘氏のサークル・鴨葱スウィッチブレイドはコミティア史においてエポックな存在であり、最初の同人誌「サンディと迷いの森の仲間たち」(1989年4月発行)は、中村氏が〈あまりに見事に完成されている〉〈コミティアに乗り込んできたひさびさの核弾頭〉と絶賛。ほどなくして内藤氏の同人誌を買うために一般客が並ぶようになりはじめ、同人誌を出すたびにハガキアンケートで第1位になる現象が起きた。

この時期の人気サークルとして吉祥寺倶楽部(リスプII)も欠かせない。すでにボニータ(秋田書店)など商業誌で活動していた東宮千子氏を中心に1990年に結成されたサークルで、第19回では760冊、第20回では1167冊が売れ(「ティアズマガジVol.21」売上冊数ランキング参照)、コミティアのこれまでの売上記録を大きく塗り替えた。オリジナルの同人誌が1回で1000冊以上売れるというのは、現在でもそう簡単に達成できる数字ではなく、当時のコミティアが成長真っ只中にあったことの証だろう。ちなみに、同サークルに参加していた芳崎せいむ氏は、コミティアで原画展を開催したり、代表作「金魚屋古書店」にコミティアのシーンを登場させるなど、近年も何かと縁がある。

人気サークルが登場するようになったコミティアは、作品と人をつなぐ役割=メディア化を推し進めていく。象徴的な動きは「コミティアパーソナルコミックス」。これはコミティアが発行元となる単独作家の作品集シリーズで、支持したい作家をもっとプッシュしていこうとする企画である。読者アンケートでは上位だが売上ランキングでは上位ではないとか、在庫切れで入手困難だとか、そういった作品を再提示する役割を担った。第1弾はサークル・ひつじにいた三縄千春氏の「パピヨン」で、露崎雄偉「そんな気がする」、山川直人「シリーズ間借人」……と続き、途中休憩をはさみながら2004年の松本藍「セルフポートレート」まで全20作が刊行された。

1991年の第20回からは1000サークルに迫る規模となり、あわせて地方コミティアも動き出した。これは「創作オンリー」という姿勢に賛同した団体に、「コミティア」という看板を使ってその土地ごとに即売会を開催してもらう緩やかなネットワークで、現地のスタッフが運営を行い、採算も独立、カタログも独自に作るフランチャイズシステム。新潟コミティア(1991年11月~)を皮切りに、名古屋コミティア(1993年1月~)、関西コミティア(1993年4月~)が始まった。現在はさらに北海道コミティア(2014年1月~)、みちのくコミティア(2015年7月~。福島県)、九州コミティア(2017年2月~)が存在する。地方ごとに細かなルールは違っており、例えば関西コミティアはアクセサリーやグッズだけでの参加は不可、みちのくコミティアはオリジナルならコスプレ可、といった具合で、近くにお住まいの方は一度それぞれの公式サイトを確認するといいだろう。

「ティアズマガジン」の充実化と原画展増加

中村代表は13年間、手伝いを含めると15年間在籍したぱふを1993年8月号で退社。31歳でコミティアに専念することとなる。1992年の第24回から購入が必須となった「ティアズマガジン」はますます情報誌化し、商業作家や雑誌編集者へのインタビューの増加、誌上で「コミティアVSコミケット」の議論を白熱させたりと、安定しつつあったコミティアを揺さぶるような誌面づくりになっていく。メイン会場は東京流通センターのままだが、交通の便がいい池袋サンシャインシティを時々利用するようになった。

1990年代は、アニパロで一時代を築いた投稿雑誌・ファンロード(ラポート)投稿者が同人誌を出す際にコミティアに参加する例が少なくなかった。「ティアズマガジン」表紙イラストやイベント告知チラシは時代ごとのコミティアの象徴であると同時に、広く一般に向けてアピールする役割を担っており、プロ・アマ問わずさまざまな作家が起用されているのだが、第25回表紙の志摩冬青(漆原友紀)氏、第26回表紙の立花晶氏、第32回チラシのこがわみさき氏、第37回チラシのこげどんぼ*氏、第39回チラシの亀井高秀氏、第40回チラシのシラトリユリ氏、第42回チラシの思い当たる氏、第43回表紙の犬上すくね氏、第49回チラシのぴぃたぁそると氏……といった人々はみなファンロード投稿者である。ファンロード関係以外で目立つ名前をあげると、第31回表紙を描いた山名沢湖氏は当時まだ商業デビュー2年前だが、同人誌「水素」が高く評価され注目を集めていた時期で、第33回表紙の野火ノビタ氏はコミティアをきっかけに榎本ナリコ名義で商業デビューしている。第46回チラシの冬目景氏は商業連載前の1994年からウエダハジメ氏、てん氏、若氏らと一緒にサークル・ながまる堂で同人誌を出していた。

1990年代後半からは企画展や原画展が目立ちはじめた。もともと会場が広くなったタイミングで、余ったスペースを有効活用するために生まれた苦肉の策だったが、一般層をコミティアに惹きつける新たな魅力となり、作家らにはプロの原画の線を見ることで刺激を受けてほしいという期待もあった。1995年の第33回では、BELNE氏、今市子氏、TONO氏など当時のコミティア常連サークルの作家が参加する商業誌・ネムキ(当時・朝日ソノラマ、現・朝日新聞出版)の原画展を含む関連企画が行われ、これをきっかけにマンガ雑誌単位での原画展も行われるようになる。ここには商業誌を受け入れていこうとする意図があり、作品にアマもプロもないというコミティアの考え方がある。もっとも昨今はデジタル作画が増えているため、アナログの原画展開催が難しくなってきているようだ。

過去に行われた原画展をざっとメモしておこう。作家単位では第8回=BELNE、第10回=安倍ひろみ、第27回=小林智美、黒沼オディール、第40回=村田蓮爾、第43回=作画グループ、第58回=兄弟仁義、第66回=今市子、第68回=芳崎せいむ、第69回=羽海野チカ、第72回=こうの史代、第77回=水野英子、第84回=西原理恵子、第104回=ながやす巧、第116回=諸星大二郎、BELNE……。マンガ雑誌単位では、第33回=ネムキ、第44回=ヤングキングアワーズ(少年画報社)、第46回=別冊少女コミック(小学館)、第49回=週刊少年チャンピオン(秋田書店)、第52回=ウルトラジャンプ(集英社)、第54回=コミックビーム(当時エンターブレイン、現KADOKAWA)、第80回=モーニング×アフタヌーン×イブニング(いずれも講談社)、第88回=アックス(青林工藝舎)、季刊エス+スモールエス(当時飛鳥新社、現復刊ドットコム)……。企画展は無数にあるが、近年で印象的だったのは第70回=岩田次夫読書会メモリアル、第97回=MGMメモリアル読書会、第104回=手塚治虫トリビュート展などがあげられる。

コミティアは1999年に第50回&15周年とキリのいい数字を迎え、会場は東京ビッグサイトをメインに移行。記念出版された「コミティア50thプレミアムブック」は、歴代「ティアズマガジン」の表紙とチラシのイラストをほぼすべて収録し、インタビューやメイキング記事、歴史を振り返った、この時点での集大成である。中村代表は「次は100回ですね」と皆に言われ〈その言葉を聞くとちょっと気が遠くなる〉と書く。カタログの挨拶に〈コミティアはいつもここにいます〉と書き続ける重みが増していくのだった。

出張マンガ編集部設置とイラスト本の増加

コミティアを次の段階に進めたのは2003年2月、第63回から始まった出張マンガ編集部の存在だろう。出版社に声をかけ、作品を見てもらう雑誌編集部スペースを設置したもの。当日はコミックビーム編集部に3時間待ちの行列ができるほど好評となり、当初は40誌にアプローチして10誌ほどだった出展も、現在は100誌近い編集部が参加。ほかの同人誌即売会も追随する人気企画となった。この背景には、雑誌への原稿持込が年々減少しているという事情もあるようで、自分から連絡するほど自信はないけど企画の一部で見てもらえるなら試してみたい、という潜在需要を掘り起こした点がよかったのだと思われる。実際に出張編集部をきっかけにデビューしたマンガ家も多いという。出張編集部コーナーの存在によって、趣味ではなくプロを目指すマンガ家の一群が可視化され、会場の雰囲気が少し変わったように感じられた。

2000年代を通してデジタル環境とインターネットの影響は小さくない。たとえばイラストメイキング記事が人気だった雑誌・コミッカーズ(美術出版社)は24号/2000年春号からCG入門講座を開始している。前年にも単発的に2回だけ入門記事はあったが、本格的な連載はこの号から。ここでのCGとはコンピュータで描いた絵という意味で、紙とペンではなくパソコンとペンタブの時代がやって来たのだ。この頃から同人誌印刷所がアナログ原稿以外にデータ入稿にも対応し、同人誌の作り方が変わっていくのである。同誌編集長だった天野昌直氏は2003年に新たに季刊エスを創刊。エスでは読者投稿イラストの審査員の一人として中村代表が不定期に参加しており、2006年・第78回では企画「『季刊エス』イラスト公開コンテスト」、2009年・第88回では「季刊S+SS メイキング&イラスト展」を開催するなど、コミティアと関わりが深い。

コミティアの申し込み枠にジャンル「イラスト」ができたのは2005年11月の第74回。2009年11月の第90回では、コミティアとタイアップする形で同じ会場にてpixivマーケットが開催。開設からまだ2年目だったイラストSNS・pixiv初の即売会企画で、お互いのパンフレットで相互入場可能だった。pixivに絵を投稿している若い描き手がコミティアに足を運ぶきっかけのひとつとなり、現在のコミティアでもっとも数の多い「イラスト本」の増加は、季刊エスとpixivマーケットの影響が大きい。

さて、2000年代のコミティアの大きなトピックとして、「夕凪の街」にまつわるエピソードも触れておきたい。1997年からサークル・の乃野屋で参加していたこうの史代氏は、週刊漫画アクション編集部から話を持ちかけられ、「夕凪の街」という作品を描き下ろす。おそらく8月の終戦日近くの号に載る予定だったものの、原爆と後遺症というテーマの繊細さゆえに編集部が掲載を迷っていた。そこで2003年8月末のコミティア第65回の見本誌コーナーに提出するために、こうの氏が1冊だけ閲覧用のコピー誌を制作。読書会で密かに話題を呼ぶ。そうこうしているうちに漫画アクションの休刊が決まり、「夕凪の街」は休刊直前の9月30日号に無事掲載される。ただ、週刊誌はすぐ店頭から消えてしまうため、改めて同年11月の第66回に同人誌で「夕凪の街」を販売。〈本年のマンガ界の最大の収穫〉と絶賛された本作は、ジュンク堂書店池袋本店のコミティア委託コーナーでも300冊近く売れ、その反響に驚いたアクション編集部が続編「桜の国」を依頼し、2004年に単行本化。第8回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞するに至った。こうの氏は〈商業誌で発表できない可能性もあったけれど、その時はコミティアで出せば良いや〉と考えていたそうだが、ほかでダメならコミティアがある、という安心感が作家を支え、結果「夕凪の街」という作品の力がコミティアという場を通じて広まったことで、近年劇場アニメ化された「この世界の片隅に」までつながった、と考えるのは大げさではないだろう。

なお、ジュンク堂書店池袋本店のコミティア棚は、雑誌編集者が定期的にチェックしているといい、オノ・ナツメ氏の同人誌をここで見つけた編集者が連載を依頼し、マンガ・エロティクス・エフ(太田出版)掲載の出世作「リストランテ・パラディーゾ」につながるなど、即売会の外で影響力を持っている。

文化庁メディア芸術祭とオリンピック

2011年3月11日の東日本大震災の後の初開催である5月・第96回のコミティアは、参加をキャンセルしたサークルは30ほど。むしろ知人と会えた、開催されてよかったという反響が大きく、「場」の機能を再確認するきっかけとなる。そして2012年5月の記念すべき第100回は、5609サークル参加の過去最大規模で、ずっと出てなかったけど100回だから久しぶりに出てみたという懐かしいサークルも多数参加し、100回を祝した特別な同人誌がいくつも作られ、過去から現在までのコミティアが一堂に会したような珍しい回となった。それまで2000~3000サークル参加規模だったのが、100回を境に4000~5000サークル規模に変化。コミティアはますます巨大化していく。

第102回からは海外マンガフェスタが始まった。海外のマンガ家や出版社を招いて日本に紹介する催しで、運営事務局からの「コミティアで開催したい」というオファーから実現したもの。第1回では浦沢直樹氏と大友克洋氏を目玉に海外コミック作家を招いたトークライブが好評を得た。以降、2018年の第126回まで毎年秋のコミティアで定期開催されていた。

2010年代はコミティア参加作家の名前をコミティアの外で見かけることが多くなった時期だ。とくに文化庁メディア芸術祭マンガ部門などはコミティアを定期チェックしていると思わせる頻度である。先ほど触れたこうの史代以外にも、2007年にコミティア常連サークルであるメタ・パラダイムの白井弓子氏が同人誌「天顕祭」で第11回マンガ部門の奨励賞を受賞しているし、2011年の第15回から設けられたマンガ部門の新人賞に絞ってみても、第15回の西村ツチカ、第16回のおざわゆきと田中相、第17回の今井哲也、第21回の板垣巴留と増村十七、第22回の鶴谷香央理、第23回のイトイ圭と和山やま……といった名前は、皆コミティアに出展経験のある作家である。

2013年にはこうした受賞作家を踏まえて、中村代表自身が第17回文化庁メディア芸術祭で功労賞を受賞。翌年の第107回コミティアで受賞記念企画「大中村展」が開催され、これまでの歩みを振り返る試みがなされた。2014年という年はちょうどコミティア30周年の年であり、2012年の100回記念から盛り上がりが続いていた。とくに大きな記念事業は、発行・コミティア実行委員会、発売・双葉社の形で刊行された「コミティア30thクロニクル」の出版だろう。コミティアで作品を発表した経験を持つ作家74人の同人誌時代の作品を全3冊・計2000ページのボリュームで収録した、コミティアの歴史を凝縮した貴重なシリーズである。正直なところ、これさえ読めばこの歴史原稿を読む必要がない。

2010年代後半のトピックは東京オリンピックの影響による会場問題である。2015年頃からネット上で懸念されていたが、2020年夏の東京オリンピック・パラリンピック開催によって、2019年4月から東京ビッグサイトの東展示棟が使用できなくなる。コミックマーケットをはじめ大規模同人誌即売会でよく使用される会場だけに影響は必至で、その対策を話し合い同人文化を盛り上げていくために、コミティアを含む同所を利用している7団体によって「DOUJIN JAPAN 2020」が組織された。

2020年の新型コロナウイルスと同人誌即売会

だが、結果として、2020年に入り、「DOUJIN JAPAN 2020」は東京オリンピックよりも新型コロナウイルス対策を話し合う場となっているようだ。東京オリンピックは現状2021年に延期となり、会場利用不可期間が延びたのに加えて、そもそも大人数で集まる密な即売会は開催について世間の理解を得づらい。同人誌即売会にもっとも逆風が吹いているのが2020年~2021年の状況といえる。コミティアは2020年の5月と9月の開催が中止となり、11月も見通しが立たないまま、クラウドファンディングに頼らざるを得ない存続の危機にあるのは、公式サイトなどで表明されているとおりだ。

同人誌即売会の今後を考えることは本稿の目的ではない。ただ、全部オンラインに移行すればいいというよくある意見には、手軽な決済手段をもたない若年層のこと、目当てのものだけでない「目的外」に出会う面白さ、全員がひとつの場所にいることの高揚感、未知の描き手と未知の読み手が直接対峙する少しの緊張感、などについて説明することになるだろう。同人誌即売会は東京だけの特権ではないし、探せば地方のどこにでもある。新型コロナの影響で開催できないのは大規模なものだけなので、興味があればまずは近場の小規模イベントに行ってみるといい。もしかしたら同人誌の本当の面白さに出会えるかもしれない。

同人誌の本当の面白さ、とは何か。それは「創作の野性」である。これはかつてBELNE氏が同人誌にあって商業誌にはないものとして語った言葉だが(ぱふ1985年2月号)、万人のために整えることをしていない、自分が作ったものをそのまま届けたいという意志が生み落とすむき出しの表現。商業媒体に行くときっと失われるもの。それが山ほど待ち受けているのが同人誌即売会であり、コミティアという場所なのだ。